京都の醍醐寺

醍醐寺の入口である総門。

ここ醍醐寺は、真言宗醍醐派の総本山。

弘法大師の孫弟子である
理源大師・聖宝
(りげんだいし・しょうぽう)

が874年に創建しました。

山岳信仰の霊山であった醍醐山に登った
聖宝は、白髪の老翁の姿で現れた

地主神・横尾明神
(よこおみょうじん)

より

水(醍醐水)

が湧き出るこの山を譲り受け

准胝・如意輪の両観音を刻み
山上に祀りました。

これが醍醐寺の始まりです。

開創後は

醍醐
朱雀
村上

の三代にわたる天皇の
深い帰依により

山上には

薬師堂
五大堂

山下には

釈迦堂
法華三味堂
五重塔

などが次々に建立され

山上山下にまたがる
大伽藍が完成しました。

山上を上醍醐(かみだいご)
山下を下醍醐(しもだいご)

と呼びます。

以後も、皇室をはじめ
貴族や武士の支援を得て

三宝院をはじめとする
諸院や種々のお堂が建立されて

真言密教の中心的寺院として
多くの信仰を集めています。

しかし・・・・・・

長い歴史の中で、ここ醍醐寺は
何度も火災に遭い

文明・応仁の乱では五重塔を残して
下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃。

長い間、復興に至りませんでしたが
1598年の春に、豊臣秀吉が開いた

「醍醐の花見」

を契機に秀吉や秀頼により

金堂
三宝院
開山堂
如意輪堂

などが再建されました。

江戸時代に入ると、
醍醐寺歴代座主が居住する三宝院が

幕府より当山派修験の本山であると
明確に位置づけされました。

そのことにより、山への信仰が高まり
醍醐寺は再び活気を取り戻します。

明治維新後の

「神仏分離令」
「修験道廃止令」

などの数々の法離で大打撃を受けましたが
歴代座主の尽力により開山以来、

醍醐の教えは燈し続けられて
現在に至ります。

1000年以上もの歴史を持つ醍醐寺は
日本仏教史上では重要な位置づけで
寺宝類の多くは国宝、国の重要文化財指定。

また、1994年には、ユネスコ世界遺産
にも登録されました。

醍醐寺の西大門。

1605年、豊臣秀頼により
再建されたものです。

門の仁王像は、平安後期の1134年
仏師勢僧・仁僧により造立。

西大門は通称「仁王門」
とも呼ばれます。

門を通り抜けたあとは
ひらすら参道が続きます。

重要文化財に指定されている

「清龍宮本殿」

醍醐寺の鎮守社で、1097年に、
最初に建立された上醍醐より
分身を移し祀ったものです。

その後、この社殿の前で、清龍会が行われる

ようになりました。

現在の社殿は、1517年に再建されたもので
毎年4/1から21まで清龍権現桜会の
様々な行事の中心となっています。

清龍宮の拝殿。

国宝指定の醍醐寺の五重塔。

醍醐天皇の菩堤を弔うため
第一皇子・朱雀天皇
が936年に着工し

第ニ皇子・村上天皇
の951年に完成しました。

高さは約38メートルで
屋根の上の相輪は約13メートル。

相輪が塔の1/3を占めます。

内部の見学は出来ませんが
初層の内部には真言八祖が
描かれているそうです。

真言八祖というのは
インドで生まれた真言密教の教えが

中国に伝わり、日本の弘法大師に
伝わるまでの八祖を指します。

第1祖 (龍猛菩薩)
第2祖 (龍智菩薩)
第3祖 (金剛智)
第4祖 (不空三蔵)
第5祖 (善無畏 )
第6祖 (一行禅師 )
第7祖 (恵果阿闍梨 )
第8祖 (弘法大師・空海 )

国宝指定の醍醐寺の金堂。

醍醐天皇の御願により
926年に創建されました。

当時は釈迦堂と
言われていたようですが

永仁、文明年間に
2度も焼失してしまいました。

現在の金堂は、豊臣秀吉の命により
紀州(和歌山県)湯浅から移築が
計画されました。

秀頼の時代の1600年に完成しています。

この金堂が、醍醐寺の中心のお堂で
安置されている薬師如来像が
醍醐寺の本尊となります。

不動堂・護摩道場。

堂内には不動明王を中心に
五体の明王が安置されています。

堂前の護摩道場では、
当山派修験道の

紫燈護摩が焚かれて
世界平和など

様々な祈願が行われます。

焚かれた痕が残っています。

真如三昧邪堂。

もとは朱雀天皇の御願により
法華三昧堂として

949年に創建されましたが、
1470年に焼失。

現在の堂は、1997年に
真如三昧邪堂として建立された
新しいものになります。

醍醐寺の祖師堂。

ここには真言宗を開いた
弘法大師・空海

その孫弟子で、醍醐寺を開創した
理源大師・聖宝

が祀られています。

弘法大師の誕生日の6月15日には
盛大に降誕会が行われます。

鐘楼堂。

醍醐寺の大講堂。

平安末ごろに製作された
醍醐寺最大の丈六の

木造・阿弥陀如来坐像
が祀られています。

その他にも

大日如来坐像
深沙大将
大黒天
地蔵菩薩

が安置されています。

紅葉のシーズンは朱塗りの弁天堂が
水面とよく合う事で有名な紅葉の名所。

弁天堂

弁天堂内には、音楽などの
学芸や知識の女神である

弁才天

が祀られています。

弁才天は弁財天

とも書かれることが多いため
一般には七福神に加えられて

↑七福神の図

金運アップ的な見方をされる
ことが多いですが、

経典での正式な漢字表記は
弁才天となります。

たまに
「弁財天に行ってきた!」
とか

「なんで弁財天っていくつもあるの?」
って話を聞きますが

弁財天というのは寺の名前ではなく
祀られている神のことを指します。

なので、弁財天を祀る場所は
たくさんあってもおかしくないわけです。

弁才天のルーツをたどると、

ビンズー教の戦いの女神
「サラスヴァティー」
が仏教に取り込まれる。

(ギリシャ神話の戦いの女神
アテナ神ともつながります。)

サラスヴァティーの漢訳は
辯才天

漢字の改定により
「辯」 が 「弁」
に統合。

弁才天
となったようです。

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