リトアニアにある
日本のシンドラーとも言われる
杉原千畝の杉原記念館。
建物にはリトアニアの地ながら、
日本語で杉原記念館と書かれています。
希望の門、命のヴィザ
とあります。
ここは、第二次世界大戦初期、
ナチスの迫害から逃れるために、
日本通過の活路を求めて
やってきたユダヤ人のために、
少しでも多くの命を救うため、
手書きでビザを発行し続けた
杉原千畝が赴任していた
リトアニアのカウナス領事館。
彼の功績は映画や本で紹介されているため
知っている方も多いと思います。
杉原記念館では、15分ほどの
彼の生涯をまとめた映像が
視聴できます。
もちろん、日本語対応。
彼が赴任していたカウナスの
日本領事館の前に、
ナチスに追われて、ポーランドから
リトアニアに逃れてきたユダヤ人が
大勢押しかけてきました。
目的は日本の通過ビザ!
なぜなら、すでにヨーロッパは
ユダヤ人にとって安心して
暮らせる場所はなくて、
ヨーロッパ→シベリア→日本→米大陸
へのルートが生き残れる
可能性のある道だったからです。
そのため、ユダヤ人を
救おうと考えた杉原千畝は、
ビザ発給の許可を得るために、
日本へ電報を打ちました。
しかし・・・・・・
返ってくる答えは、
何度電報を打っても
ノー!!!
との返事でユダヤ人への
ビザ発給の許可は下りませんでした。
まぁ、当然といえば当然の答えです。
なぜなら、第二次大戦中に
日本とドイツは同盟を結んでおり、
ナチスドイツが敵視している
ユダヤ人に対して、
彼らを救うためのビザを発行するなんて、
裏切り行為になるからです。
そんな中、ドイツとソ連が
バルト三国併合の秘密協定を
含む平和条約を結び、
ここリトアニアにもソビエト兵が
次々と入城してきました。
そして、日本領事は少しでも
早く退去するように!!
と求められその期日が近づくなか、
杉原千畝は迷います。
このまま退去するか・・・・・・
それともユダヤ人を救う道を選ぶか・・・・・・
救いを求めてやってきた
ユダヤ人を無視することが
出来なかった彼は、
本国の指示を無視して、
反逆罪覚悟のうえ、
独断でビザを発行することにしました。
「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない。
でなければ私は神に背く・・・・・・」
それからの杉原千畝は、
まるで何かに取り付かれたかのように、
昼夜を分かず、ヒマさえあればペンが折れ、
腕か動かなくなるまでビザを書き続けます。
ビザを書いたのは
デスクの上だけにとどまらず、
リトアニアを脱出する
列車の中でもビザを発行し続け、
出発ギリギリまで列車から
外にいるユダヤ人にビザを手渡しました。
無情にもリトアニア脱出のため、
彼を乗せた列車は出発・・・・・・
「ごめんなさい、もうムリです。ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
と、一言。
こうして彼はリトアニアを脱出しました。
彼が、リトアニアを出るまでに
発行したビザは、約半月で
1600枚と言われています。
一日100枚弱を書いた計算になります。
杉原千畝は、リトアニアを脱出した後も、
ビザを受け取った人たちは、
無事に逃げることができたかどうか、
心配していたようですが、
実際に、日本を経由して第三国に
渡ることのできたユダヤ人は
6000人を超えた!
と伝えられています。
彼の名前を冠したストリートも
生まれました。
また、カウナスの日本領事館は
杉原記念館として保存されることになり、
観光客がやってくる
スポットとなっています。
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