日本のTVでもドキュメント番組が
放送されることの多い場所ですが
ここは、一大殺人工場!!
とも言える場所です。
第二次世界大戦が始まり
ポーランドがナチス・ドイツの
支配下に置かれた1940年に、
ポーランドの政治犯を
収容するために造られましたが、
その後、ロマ、ソ連軍捕虜も
収容されるようになり
施設が拡大されていきました。
強制収用所をテーマにした、
という映画がありますが、
あの作品で取り上げられていた収容所は、
アウシュヴィッツではなく、
クラクフ・プワシュフ強制収容所。
あの場所は、現在、更地で
住宅も建てられることなく
閑散としており、
地元の人も近寄らないそうです。
逆に、アウシュヴィッツ強制収容所に関しては、
戦後、ほとんど当時のままの状態が
保存され博物館として公開されています。
また、同じ過ちを犯さぬようにとの思いから、
世界遺産にも登録されました。
入口のゲートには、
「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」
という文字が掲げられていますが、
「ARBEIT」の「B」が逆さまに
なっているのに気が付くと思います。
これは収容者が作らされたものですが、
せめてもの抵抗の証に反対に
作ったという説があるものの、
今となっては、誰も理由など
知る由がありません。
収容所内には、28棟の「囚人棟」があり、
最大で2万8000人が収容されていました。
現在、この棟は博物館となっており、
棟ごとにさまざまな展示がされています。
ここアウシュヴィッツに
ユダヤ人が強制収用されました。
ちなみに遺灰は、そのほとんどが
証拠隠滅のために、
近くの川に流されました。
レールと収容所がある映像を
見たことがある方もいると思いますが、
あれはアウシュヴィッツではなく
ビルケナウ収容所の映像になります。
飲まず食わずで運ばれるため、
収容所に到着する前に息絶える
ユダヤ人も多かったそうです。
労働に使えない人間の先は・・・・・・
シャワーを浴びさせるといい、
裸にしてガス室送りにされ
殺害されました。
使用されたチクロンB。
殺虫剤としてドイツより運ばれました。
ドイツより運ばれた
チクロンBの量は
20万kgにもなります。
なので、これはほんの一部です。
5号棟では、ナチスが連行した人々から
没収した品々が展示されています。
後で持ち主が分かるように
名前を書けとの命令で、
トランクには名前が書かれていますが、
二度と持ち主の手に戻ることは
ありませんでした。
有刺鉄線で高圧電流が流れていたため、
脱獄はほぼ不可能。
そのため、絶望感からか、
自ら高圧電流の流れる有刺鉄線に
身を投げて自殺する囚人もいたそうです。
収容されると、名前の変わりに
番号が付けられて、
番号で呼ばれるようになります。
番号は刺青で体に直接書かれます。
いつ収容されていつ死んだかが
書いてあります。
つまり、ここに写っている写真の方で
生き延びた人は一人もいません。
75kgあった女性がここに収容され
25kgにまで落ちてしまったという
記録も残っています。
使用できる秒数が決まっており、
それを超えると処刑されることも
あったそうです。
一人用ではなく、
一段に7、8人が収まりました。
イラストのように、ここで数多くの
ユダヤ人が銃殺されました。
死の壁の隣接する囚人棟は、
外の様子が見えないように
窓に板が取り付けられていますが、
視界は防げても、銃声や悲鳴までは
防ぐことはできません。
中の囚人は、どんな思いだったんでしょうか・・・・・・
高圧電流が流れる有刺鉄線が
2重になっています。
アウシュヴィッツの外には、
収容所の司令官の官舎があります。
収容所を管理するトップの人間は、
後にこの絞首台で処刑されました。
毒ガスにより、口からは泡を吹き、
目、耳、鼻などから血を流して
死んでいくそうです。
遺体は隣の焼却炉で焼かれて、
証拠隠滅のため遺灰は
近くの川に捨てられました。
効率よく処理するために、
レールを完備するなど、
まさに殺人工場としか言えません。
それでも、ここアウシュヴィツの悲惨さが
伝わったのではないかと思います。
同じ過ちを繰り返さないために
登録された世界遺産ですが
まさにその通りです!!
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